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デ・カイパー ピーチツリー  (オランダ産リキュール)

そもそも、ピーチ風味は、日本の若い女性に好まれる味で、色々なフツー釣に対するイメージ調査などを比較検討すると、『ピーチは、大人のイメージ、高級感、新しさを感じる。』という結果が出てくる。
ペア(西洋梨)、ライチ、グループフルーツなども、同じようなイメージで受け止められている。
これに対して、庶民的、に非常的なイメージで捉えられているのが、バナナ、ストロベリー(いちご)、アップル(りんご)などである。
世界的にピーチ風味流行の流れを追うと、まず1949年にベネチアのハリーズ・バーで、ビーチを使った発泡性ワイン・カクテル『ベリーニ』が生まれて、ピーチ風味流行の口火を切った。その後、ヨーロッパのリキュール・メーカー各社でピーチ・リキュールが開発されるようになり、1984年にはそれをスフとかしたオリジナル・ピーチツリーが発売された。更に、1986年には南フランスのカールトン社が桃のリキュールを溶かしこんだ発泡性ワイン『カールトン・プリュット・ペーシェ』を発売して、ファッショナブルな味を求める若いグルメたちの舌を捉えた。
こうした海外もにトレンドは、日本の飲食業界にも影響を及ぼし、ピーチフレーバーを持ったリキュールは、バーやレストランに広く浸透している。その中で、最も人気が高いのが、デカイパー社のオリジナル・ピーチツリーである。
この酒は、1984年、アメリカのナショナル・ディスティラーズ・プロダクツ社の研究室長アール・G・ラ・ローが、木にたわわに実っている桃の実を見ながら、その新鮮な香味をリキュール化した、と考えついたのが始まり。早速事業提携先のオランダのデカイパー社に連絡を入れて、開発にあたってもらい、1984年に完成。
翌年、アメリカで発売したところ、たちまち若者から支持され、爆発的なヒット商品となった。はじめは、トニックウォーター割で飲むようPRしたが、オレンジジュースで割る『ファジーネーブル』というカクテルの方に人気が出て、飲み方の主流となった。
この『ファジーネーブル』は、今ではスタンダードカクテルの地位に定着している。
製品は、ホワイトピーチ(東洋ゲンさん品種),イエローピーチ(欧州へ伝播する途中、ペルシャで変種として生まれた品種。ペルシャからポーチ、ペーシュの名が生まれた)のよく熟した実から、もぎたてのうちにエキスを抽出。それを中性スピリッツにとかしこみ蒸留。シロップ、水を加えてから、無色透明のまま製品化する。フレッシュな香味が身上。
この製品がアメリカで新発売された時、名称はピーチツリー・シュナップスであった。当時、デ・カイパー社では、従来のペパーミントリキュールの濃厚で刺激的な甘味や風味を和らげたペパーミントスナップスや、穏やかなベリー風味のブルベリーシナップスなど、無色のライトタイプのリキュールをアメリカに送り出して、かなりの成功を収めていた。
そこで、ピーチのリキュールを発売した時も、そのシリーズの一環として単純にシュナップスという名を付けたのだが、その後は程無く、現在のようにオリジナル・ピーチツリーと改名。ラベル上では、その下に商品の特徴を端的に表現した『ライト』という文字を配するようになった。


ピーチ釣りリー

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Trackback [0] | Comment [0] | Category [リキュールの知識] | 2013.02.20(Wed) PageTop

二階堂  (大分 麦焼酎)

現在、すべての焼酎のうち、全国で最も多く飲まれているのは麦焼酎である。
どんな料理とも比較的相性が良く、食中酒として飲食店や家庭で幅広く飲まれているが、このように麦焼酎が広まるきっかけとなったのが、大分県の二階堂酒造が昭和48年に発売した『二階堂』だった。
初の麦100%の焼酎として誕生してからおよそ40年となるが、この酒の由来は江戸時代初期、寛文年間(1670年頃)までさかのぼる。蔵のある日出町の名刹・松屋寺で、ある小僧が寺で作っていた酒をこっそり頂戴し、飲みきれなかったものをツボに入れて近くに麻畑に埋めていおた。やがてその酒は風味が一変して大変美味しくなっており、それを知った寺の和尚は藩に献上、『麻地酒』としてその製法が記録される。慶応2年(1866年)に創業した二階堂はこの製法を受け継いで、清酒を作っていたが、全当主である六代目が腐りやすい清酒から保存のきく焼酎へ転換。麦が健康食品として注目されてきたこともあって、麦だけをつかった焼酎造りに専念し、『二階堂』が生まれたのだ。
味わいの特徴はフラットさで、個性の弱い嫌いはあるがどんな飲み方でもそれほど風味が損なわれない。名脇役といった趣だ。

香りは、透明感のあるクリアな香り。フルーツを思わせる要素はない。クレソン、レタス、ハーブといった綺麗な野菜や、白いでんぷん質のような香りがある。
味わいは、トロミと甘味の中に、20世紀梨を思わせるみずみずしさ、甘さが感じられる。味わいの中盤から、ほのかな苦味がじんわりと現れてくる。
後口は、風味はフラットだが、しっかりとした香味が感じられる印象である。スパゲティを食べた後のような麦のグルテンを思わせる旨味が残る。

二階堂

Trackback [0] | Comment [0] | Category [焼酎の知識] | 2013.02.11(Mon) PageTop

今は女人禁制の酒造り、昔は女の仕事だった!

つい最近まで、日本酒づくりは男だけの仕事で、酒を作る蔵の中は女人禁制というところが多かった。
酒を作る職人さんのことを蔵人というが、その職人たちの頭が杜氏と呼ばれる。つまり酒造り部隊の隊長である。
ところがこの杜氏、昔は刀自(とうじ・とじ)と書いていたようだ。
刀自とは、年配の女性を尊敬した言い方である。古代日本では、飯粒を噛んで酒を作っていたのだ。
「名言通」という書物には、『刀自はもと老女の称なり。されば老女にて酒を造りしならん」
と書いてあり、神話時代だけでなく、ある時代までは、酒造りは女の仕事だったようだ。
けがれなき処女ではなく、老女が噛みの酒を作っていたのかと思うと、意外だが、その頃にはもう麹から酒を作っていたようだ。
また平安寺だ、酒の甕のことを刀自といい、そこから杜氏に変わったという説や、藤次郎という男が酒造りがうまかったから、そこから来たという説もある。

Trackback [0] | Comment [0] | Category [お酒の知識] | 2013.02.11(Mon) PageTop

エヒト・シュレンケルラ・ラオホビア メルツェン  (ドイツ・バイエルン産ビール)

1678年に創業したシュレンケルラ醸造所の「エヒト・シュレンケルラ・ラオホビア メルツェン」は、ドイツ・バイエルン州の町バンベルグ発祥の燻製ビール。『ラオホ』はドイツ語で『煙』を意味する。ブナの木を燃やしてモルトを燻す技法は、偶然の賜物。ビールづくりをしていた修道院の火事でモルトが煙で燻されてしまったが、『捨てるのは惜しい』と使ったところ、素晴らしい香りと味わいのビールが出来上がった。このエピソードが記された古文書は、醸造所直営のレストラン『シュレンケルラ』の入口に飾られている。ボトルのラベルはその古文書を模したデザインだ。
『エヒト・シュレンケルラ・ラオホビア メルツェン』のグラスに顔を近づけると香ばしいモルトと、煙、焚き火、消し炭、ベーコンを思わせるスモーキーなアロマがはっきりとする。口に含んでもモルトと煙のキャラクターが揺らぐことはなく、スモーク料理を食べているような錯覚に陥る。燻製料理はもちろん、バーベキューとも相性がいい。

エヒト・シュレンケルラビア

Trackback [0] | Comment [0] | Category [ビールの知識] | 2013.02.10(Sun) PageTop

フランス人が好む「カルバドス」って?

日本でサイダーと呼んでいる飲み物は、清涼飲料水であって、アルコール分はゼロである。
この呼び方は、明治時代からのものであるが、ヨーロッパで、サイダーまたはシードルと言ったら、りんごの果汁を発酵させた果実酒である。
レマルクの『凱旋門』という文学作品のかなでは、至る所でカルバドスという飲み物が登場する。暗い雰囲気の作品だが、カルバドスが効果的に使われている。この作品を読んだ人は、カルバドスとはどんな酒だろうと思うことだろう。
カルバドスは、りんご酒を蒸溜して造るもので、りんごのブランデーといっていい。フランスのカルバドスという地方名からその名がとられている。日本ではあまりポピュラーではないが、フランスではかなり飲まれている。というのも、ブドウのブランデーに比較して、かなり安価だからであるが、しかし、ブドウとはまた違った味わいに惹かれて飲む人もいるようだ。
カルバドスは、アルコール分は45度程度で、オージュの谷で造られるものが最上級品とされている。

Trackback [0] | Comment [0] | Category [お酒の知識] | 2013.02.07(Thu) PageTop

グレンアギー  (ハイランドモルト)

オフィシャルには一度もシングルモルトとhして販売されたことはないが、瓶詰め業者のものが今でも少量出回っている。テイスティングは、イタリアのサマローリ者之シェリー樽熟成のもので行ったが、ある種の香水のような濃厚な狩香りがあり、味もパワフルでスイート。しかし、次第にスパイシーとなり、フィニッシュでは苦味も感じられる。非常に個性的なモルトで、飲む人によって好き嫌いがわかれるかもしれない。
蒸溜所のある東ハイランドのピーターヘッドは古くから漁業の町として知られてきた。かつてはアザラシ猟や捕鯨の基地として栄え、19世紀半ば以降はニシンのトロール漁の最大の水揚げ港として賑わってきた。しかし、漁業そのものが廃れた現在では、かつてのような繁栄を見ることはない。
そのピーターヘッドから約5キロ南、海の際に建てられているのがグレンアギー蒸留所である。
蒸留所名は、アギー川から付けられたものだが、実際はアギー川のほとりではなく、インヴァネッティと呼ばれる小さな村の近くにある。そのため、インヴァネッティ蒸留所と呼ばれていた時期もあったようだ。
創業は1831年、ドナルド・マクロード社が建てたものだが、創業後しばらくビール醸造所として使われてきた。再び蒸留所に戻されたのは1875年のことである。
しかし、その後の道のりも平坦と言えず、何度もオーナーが変わり、幾度となく操業停止に追い込まれてきた。
1970年にロング・ジョン・インターナショナル社が買収、グループの一員となったが、同社は其の後ビール会社の最大手、ウィットブレッド社に吸収されてしまった。
新しいオーナーのもとで1982年までモルトウイスキーの生産が続けられたが、この年に閉鎖。現在は再び持ち主も変わり、一部の設備は取り壊さっれてしまったので、再開の見込みはまずはいという。
ポットスチルは最小の2基。仕込み用水は蒸留所の西にあるヘザーの湿地から引いている。1880年代に全蒸留所を訪れ『イギリスのウイスキー蒸留所』という大著を著和したジャーナリスト、アルフレッド・バーナードによれば、苔とヘザーの湿地から沸き出すその水は軟水でウイスキー造りには最上の水だったという


グレンアギー

Trackback [0] | Comment [0] | Category [モルトウイスキーの知識] | 2013.02.07(Thu) PageTop

日本史に最初に登場したビールとは?

ビールが日本史に登場するのは、江戸時代になってからのことである。記録によれば、享保九年(1724年),オランダから持ち込まれたビールが、最初のもののようだ。
その年、オランダからの使節が、長崎を経て江戸に到着した。江戸では、長崎屋という旅館に宿泊したが、その時の様子を書き残した書物に『和蘭問答』がある。
その中に、三人でビールを飲むところを『コップ3人一箇所に寄せ、ちんちんと鳴らし合わせ候』とある。これがビールで乾杯という一幕だったようだ。
その次に、ビールが日本史に登場するのは、嘉永六年(1853年)。この年、浦賀に来校したペリーが、おみやげにビールを持ってきたのである。
その時通訳を勤めた蘭学者の川本幸民が、黒船に通った際、ビールをごちそうになっている。
日本人自身がビールを作り始めるのは、明治以降のことである。
山梨県の野口正章という人が製造法を研究し、明治六年(1873年)に『三ツ鱗』マークのビールを売りだした。
東京で始めて売りだされたのは、明治八年。3月十六日付の東京日日新聞(現在の毎日新聞)に、『麦酒発売本日十時より』という広告が出された。いっぽう大阪でも、ほぼ同じ頃に、渋谷庄三郎が「渋谷ビール』を作り始めている。
しかし、両方共売れ行きは悪く、渋谷ビールは明治十四年、三ツ鱗ビールは十五年に製造を中止している。

Trackback [0] | Comment [0] | Category [お酒の知識] | 2013.02.05(Tue) PageTop

ルクサド・マラスキーノ  (イタリア産リキュール)

ルクサド・マラスキーノは、19世紀初期に、イタリアのジロラモ・ルクサドが企業化に成功したリキュールで、原料チェリーとして、アドリア海北東部沿岸地方産のマラカス種のチェリーを使うところからその名がある。
この種の酒は、オランドやフランスのリキュール・メーカーも製品化しており、フランスではマラスカンという名称で発売されている。
アドリア海北東部沿岸地方(現在のスロベニア、クロアチア地方)は、昔ダルマチア地方と呼ばれていた。マラスカ種チェリーは、そのダルマチアの特産種で、古くからジュース、ワイン、あるいは現在のキルシュワッサーのような蒸留酒にして飲まれてきた。そして、いずれもマラスキーノという愛称で呼ばれていたようだ。
1820年頃、イタリアのジェノヴァ地方の貿易商人の一人、36歳のジロラモ・ルクサドが、このダルマチア地方のツァラ町に移住してきた。そして、マラスキーノという飲み物のことを知り、1821年にマラスカ種チェリーを利用した新しいマラスキーノというリキュールを作ろうと考え、ツァラ町に蒸溜所を建てた。
試行錯誤のすえに、今日のようなマラスキーノを完成。1828年に当寺の宗主国だったオーストリアの皇帝にマラスキーノ製造特権を申請し、翌年に15年間の独占製造権を得た。
製品は、南米、アジアにまで広く売られるようになったが、第二次世界大戦中の1943年、連合軍の爆撃によりツァラの工場は壊滅した。
戦後の1947年、イタリアのパドヴァ近くのトッレリアの丘陵に工場を新設して、再興へのスタートを切った。同時に丘陵にマラスカ種チェリーの木を植え、原料自給体制も整えて、今日に至っている。

同社のマラスキーノの製法は6月下旬にマラスカ種チェリーを収穫。工場に運びこむと、すぐ種子を外し、その種子を砕くことなく蒸溜して、ビター・アーモンド・フレーバーを凝縮したような液を作る。
一方、種子を外した果肉から果汁を絞り、カラマツ材の大樽で発酵させ、ある程度の段階で、中性スピリッツを添加して発酵をストップさせる。果肉のカスは種子を蒸溜した液に浸漬し、熟成させる。
その後、以上の液をブレンドして、カラマツの開放大樽で6ヶ月熟成させ、酸化を促進させる。それから3回蒸留し、トネリコの大樽で3年以上熟成させたあと、シロップを添加して最熟成させ、フィルターで濾過し、脱色し、水を加えて製品となる。
チェリーの樹一本から、マラスキーノ5本しか生まれない計算になると言われている。
以上がルクサド社の発表していつマラスキーノの製法だが、他社のマラスキーノの中には、キリルシュワッサーにビター・アーモンド・オイルとシロップを添加したタイプのものもあるようだ。
なお、マラスキーノ製造の過程で、ミントやラズベリーが隠し味として使われる場合がある。


ルクサド

Trackback [0] | Comment [0] | Category [リキュールの知識] | 2013.02.04(Mon) PageTop


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